NOHGA HOTEL UENO 上野の街の伝統と共にあるホテル

2019年が明けて1月22日、前年末に上野にオープンしたNOHGA HOTEL UENO(ノーガホテル上野)の見学会を行った。オープン前後から様々なメディアでも取り上げられた話題のホテルで、野村不動産が初めて手掛けるホテルブランドである。上野駅から上野公園とは反対の方向に歩いて5分ほどの古い街割りの中に位置する、宿泊客をターゲットにしたコンパクトなデザインホテルである。NOHGA(ノーガ)とは聞きなれない言葉だが、野村(のむら)に「思いがけない幸せ」と意味する「冥加 (みょうが)」を連ねて「のうが」とした造語で、つくる側の気持ちが込められた命名だ。


立地は北側に9m、西側に5mほどの幅の道路の交差点に面し、その角は上野駅に最も近い方を向いている。駅から徒歩で訪れる際にはこの角から入ることになる。決して大きな敷地ではないが、敢えて道路境界から壁面を下げ(道路斜線を緩和しているのだろう)、コンパクトにすっきりと立ち上がる形をつくっている。角からアプローチすると、道路に沿った植栽と1階レストランのガラス窓との間の敷地内の路地を通ってやや奥まったエントランスに導かれる。西側の道路沿いの空間はこうした外部エントランスに使われている。
 
もう一方の北側のセットバックした屋外空間は、レストランから出られる屋外のテーブル席として、パラソルを配して緑に囲われた心地よいスペースとなっている。暖かくなったら是非訪れてみたい。奥まったエントランスまで客を引き込み、レストランを前面に出すという配置を道路からのセットバックを使って上手く成し遂げている。


上野の街の伝統と共にあるホテル


セミナーは15時からと16:30からの2回に分けて30人ずつ合計60名の方々に参加いただいた。関心の高さがわかる。1階のレストランエリアを使って野村不動産都市開発事業本部の中村泰士さんから事業計画とホテルコンセプト、清水建設設計本部の間島梓さんから建築計画、フォワードスタイルの南部昌亮さんから共用部と全体のインテリアコンセプト、エンネデザインの大橋規子さんから客室インテリアデザインの説明をしていただいた。


この敷地一帯はもともと寛永寺門前町で、江戸時代には今の上野駅から公園にかけての全てを含む徳川家の菩提寺として大変な権勢を誇った寛永寺の境内に接してあったため、様々な職人や絵師、食の文化が盛んであった。


このホテルではそうした地元の伝統的な産物やテイストを消化して取り込んでいる。セミナー中にサービスしていただいたお茶菓子に添えられた薄張りのガラス器や江戸切子の器、銀器などのカトラリーを見るのも楽しい。宿泊客にはそうしたものを発見する楽しさがあるだろう。そのためにも客に充分な時間をホテル内で過ごしてもらわなければならないが、それだけの価値がある寛げる空間が出来ていると感じさせられた。


 誰もが寛げる充実した共用空間


前述のように エントランスに至る通路は西側の外部空間をつかって、一旦客を南の奥に引き込み、コンパクトにまとめられた受付で迎え入れる。ここに飾られている品の良いアートは、定期的に展示を変えるそうである。
レストランへはこの受付エリアをかすめて北側へ戻る形で入ることになる。


 BISTRO NOHGAの吹抜け


BISTRO NOHGAと名付けられたレストランはどこまでが食事の席で、どこがカフェ席なのか境界が曖昧だが、それがコンセプトなのだろう。東側のオープンキッチンはカウンター席で囲まれているが、朝にはここがブフェカウンターになる。


   オープンキッチンとカウンター席


中央には2階に階段で通じる吹抜があり、大きなテーブルがシンボル的に設えられている。西側の(吹抜に比べれば)天井が低いエリアは、低めのテーブルとチェアがゆったりと配された寛げる空間だ。吹抜でつながる2階にはライブラリーラウンジとジムがある。さらに西側にはバルコニーテラスがあり、食事やドリンクが楽しめるようになっている。ライブラリーと共に居心地の良い連続した空間となっている。最初の計画では客室としていた2階の一部を変更して共用部を拡充したとのことだが、その成果は明らかだろう。


   ライブラリーラウンジ


   バルコニーテラス


美味しいお菓子と珈琲をいただきながらのセミナーが終わったあと順次、最上階に空けて用意していただいた代表的な客室を見学した。64㎡のNOHGA Suiteをはじめ、代表的な客室を見ることができた。


 センスの良さが光る客室のインテリア


すべての客室で洗面カウンターはオープンで客室を広く見せるように工夫されている。ワードローブもオープンにして敢えてハンガーを露わに見せるデザインと相俟って実際の面積以上に広く感じるが、同室の客の間でのプライバシーは確保出来るように最低限のカーテンやスライディングドアで仕切れるようになっている。


   デラックスツインのカラースキーム


   NOHGA Suiteの洗面スペース


客室と共用部に共通して言えることだが、一つ一つの家具や水栓、金具などはよく吟味された上で選ばれており、目利きのデザインという感じだ。特に印象的なのはカラースキームのセンスの良さで、薄めのグレーや木目をベースにしながら上手く差し色となるカラフルな要素も加えて飽きの来ない空間を随所に創り出している。南部+大橋両氏のコンビはこれまで野村不動産をはじめとした高級レジデンスのデザインの経験が豊富だが、その良さが非常によく出たインテリアだと感じた。筆者は常々、住宅は日常の空間だがホテルは非日常の空間だと考えているが、ここでは必ずしも非日常的ではなく、自宅にも欲しいが手が出ないちょっと良いグレードの設えが溢れており、それが寛げる居心地の良さをつくっている。リピーターが多く生まれそうなホテルだと感じた次第である。

令和の始まりに問う/女性天皇は生まれるか?遺伝学的にはあり得ない!

令和の時代が始まりました。

天皇の御譲位のニュースが世界を巡る中、
ニューヨークタイムズなど欧米のマスコミの幾つかは
「雅子妃殿下がなぜ承継の儀式に出席しないのか?」
と疑問を投げかけ、それに乗った国内のマスコミも
愛子内親王殿下を将来の天皇になれるよう皇室典範を改めるべき」
と男女平等を掲げて伝統を見直す動きを促す動きがあります。

令和に改元されて新天皇陛下が即位される前後から、
俄かに週刊誌で秋篠宮皇嗣殿下の記事が多くなったり、
悠仁様の学校に怪しい男が刃物を置きに忍び込んだりと
ご皇室周辺がおめでたいだけでなく、別の意味で
騒がしくなっているように感じませんか。

なにやら愛子様がなぜ次の天皇になれないのか、とか
10数年前の女性天皇待望論が再燃しているように思えます。

悠仁様が生まれてから火が消えたように無くなっていた
女性天皇を待望する動きがまだ残っているのでしょうか。

でも、
新皇后である雅子様愛子内親王様を応援する気持ちや、
男女平等の思想から女性天皇を立てようとするなら
それは大変な間違いなのです。

まず明確にしなければならいことは、
女性天皇女系天皇は違うということ、
もちろん、
男性天皇男系天皇という概念も異なります。

男系、女系とはどういうことか、
遺伝学の、高校で学ぶ一般的な知識を基に考えてみましょう。

人間の遺伝子の染色体は46個あり、
男女の両親から半分の23個ずつ受け継いで
私達の遺伝子情報が形づくられていることは、
ほとんどの人が知っています。

さらに、
性別を決定する性染色体にはX型とY型があり、
この二つの組み合わせがX+Yのときに男性、
X+Xのときに女性が生まれる。
これも常識として知っています。

この2つの知識だけを基に、天皇の皇統を考えてみよう。

両親から23個ずつ=半分ずつの遺伝子を受け継ぐと書きましたが、
では、
子はその祖父母から1/4ずつを均等に受け継ぐか、
というとそうではないのです。

よく考えてみましょう。

祖父母から23個ずつの染色体を等しく受け継いだ父或いは母が、
その子に合計46個の染色体のうち半分の23個を、
その両親である祖父母から均等にその子に引き渡すことが出来るでしょうか?

そもそも23という数が奇数なのだから、2つに均等には分けられない。
1つの生殖細胞が分裂して46個の染色体から23個ずつに別れるとき、
その起源が父方のものと母方のものに等配分することは出来ません。

逆に可能性としては、
一方の親から全てを受け継いでしまうことも
非常に低い確率ではあってもあり得るのです。

ということは、、、、

種の保存本能は人間でなくとも生物ならば何でも持っているが、
例えば、貴方が女性であるなら、
貴方の子孫が数代くだった(進んだ)ときに貴方の子孫が
貴方の遺伝子、染色体を確実に(一つでも)受け継いでいるという保証はないのです。
代が進めば進むほど貴方の遺伝子が残っていない確率は高くなるのです。

これは貴方が男性でも同様なのですが、
男性の場合は46個のうち、一つだけですが、
染色体を代々受け継ぐ可能性があるのです。

それは男子が生まれ続けた場合にのみ起こりえます。
男の子のY性染色体は父親からしか受け継げない。
それは父方の祖父から受け継いだものであなのです。
他からは入りようがありません。

これが「男系」ということなのです。
「男女」で分けるのが聞き辛ければ
「父系」といっても良いでしょう。

つまり、46個の染色体のうち、
性別を決めるY染色体だけは
父系の系統を辿れば、1/46とはいえ、
確実に受け継がれていることが判るのです。

歴史上は推古天皇持統天皇など、
重要な節目に登場する女性天皇がいました。
これら女性天皇が誕生した経緯は政府がまとめてくれた良い資料があります。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai3/3siryou3.pdf

読んでいると頭が痛くなりそうな、
しかし、中身の濃い資料ですが、
昔は本当に近親婚が多かったのですね。
いまではさすがに考えられません。

延べ10代、実際には8人いらした女性天皇のうち
6人までは大化の改新の前後、天皇家を支える(操る?)権力者が
蘇我氏から藤原氏に代わっていく途中で誕生しているのですね。

「大化」というのが日本最初の元号であることを思うと
まさに日本の国のかたちがつくられていく途中の話なのです。

現代でも女性が天皇に即位する可能性は否定できません。
しかし、
女性天皇が産んだ子が天皇の地位を継ぐのは
その父親も天皇か、天皇になってもおかしくない皇太子のときだけです。
それ以外の女性天皇は生涯独身を通しています。

恐れながら、仮に愛子様天皇に即位したとして、
皇室外(旧宮家以外)から配偶者を迎えられたとしましょう。
イギリスのエリザベス女王のフィリップ殿下のように、です。

その子はたとえ男の子であっても
今の天皇家のY遺伝子は持ち合わせません。
そうして数代下った後には、今の天皇家とは
遺伝子がすべて入れ替わっている可能性があるのです。

昔の人たちが何故、遺伝学の知識もないのに
皇統を守る手段=父系の天皇を継いでいくこと
を知っていたのかまったく判りません。

でもこれを止めてしまうと
天照大神須佐之男命から続くとされる遺伝子の流れは
もう途絶えてしまうのです。
そして一度途絶えてしまえば、もう元には戻せません。

このことを日本国民は、よーく考えてみるべきだと
私は思います。

 

(余談)

上にリンクを記した女性天皇即位の経緯に出てきますが、

第46代 孝謙天皇淳仁天皇に好意を譲って上皇になられましたが

その後に病気を患った際に弓削 道鏡(ゆげのどうきょう)を重用し

第48代 称徳天皇として再度即位された後もその関係は続きます。

宇佐神宮より「道鏡天皇にすれば天下は泰平になる」と神託があった、

と伝えられたものの、それが偽の信託だと和気清麻呂によって暴かれる、

という、いわゆる「宇佐八幡宮神託事件」がありました。

詳しい経緯は諸説あるようですが、

道鏡称徳天皇に取り入って天皇位を簒奪しようとしたことは

ほぼ間違いない事実でしょう。

結局、称徳天皇は生涯独身のまま崩御されます。

もし称徳天皇が老いた身で道鏡と結婚され、

道鏡が次の天皇に即位したとしたらどうなったでしょうか?

 

考えるだけでも恐ろしくありませんか?

道鏡はその後誰かを新皇后として迎え、

その子が天皇を継いだかもしれません。

 

和気清麻呂らは称徳天皇が晩節を汚されることの無きよう、

そして結局は皇統を守ったのです。

 

 

 

 

水の駅へ:都市と地方をむすぶ 河川を巡る旅 東京農業大学 宮林茂幸教授講演

2018年10月25日、西新宿のLIXILショールームにて、東京農業大学地域環境科学部 地域創成科学科教授 宮林茂幸先生によるセミナーを開催した。

宮林先生と最初にお会いしたのは荒川ビジョン推進協議会の会長としてだった。

国際観光施設協会とまちふねみらい塾共催で3年前から行っている水上セミナーでは東京の水辺に観光資源を探る試みを続けていたが、ある会合で荒川ロックゲート(荒川本流と支流を隔てて推移をコントロールするための水門)が面白いので見に行こうという話になり、そこから秩父周辺で活動する荒川ビジョンの話へと話題が上流に上って行ったのである。

昨年の7月には国際観光施設協会の有志が荒川ビジョン推進協議会との交流を目的に三峯神社で一泊するツアーを行なった。その時に秩父市役所の会議室にて、協議会のメンバーである秩父市横瀬町皆野町長瀞町小鹿野町の方々と地域活性化や観光振興について意見交換会を開いた。宮林先生はそのときに議長を務めて下さった。

先生の研究テーマや様々な活動を具体的に知ることになるのはその後のことだが、まずは「行きたい道の駅」でいつも上位に挙がる「川場田園プラザ」の経営者として、そして農大が行なう人材教育プロジェクト、多摩川源流大学の事業推進責任者としての活動がある。
川場村利根川水系の上流にあり、多摩川源流大学は多摩川の水源である山梨県小菅村に拠点を置く。この二つに荒川を加えれば、関東平野に水をもたらす三つの代表的な河川の上流域と先生は繋がっていることになる。その知識と経験に触れる機会を得た訳である。

森林と水源地域の現状

このセミナーでもこれまで知る機会の無かった、しかし貴重な知見に多く触れることが出来た。冒頭では明治初期の面白いエピソードが語られた。
日本のインフラ整備に助言を求められて視察に訪れた外国人技術者たちが日本の河川の急流を見て驚き「これは滝だ」と言ったそうだ。災害防止の技術を伝道する目的で国内各地を廻ったが、自ら土地を管理する農民があまねく存在するのを見て「この農民がいる限り大きな災害は防げる」との助言を残したそうだ。これは日本の国土と国民性(或いは国体というべきか)を非常に良く捉えた評価だと思う。
しかし現在では、過疎化が進むことにより上流地域の農業や森林が危機的な状況に陥っているという。宮林先生がここで見せてくれたのは、人口減少率の全国分布図と放棄地の全国推移図だ。人口減少と過疎化が農村で進めば耕作放棄地が増えるのは容易に想像できる。現在、耕作放棄地の全国での合計はほぼ埼玉県の面積に相当するという。この耕作放棄地の分布図に深層崩壊危険個所の全国分布図を重ねると、それぞれの分布状態がかなりの部分で重なり、強い相関関係が存在することを示す。すなわち、人口減少の激しい地域ほど耕作地が放棄され荒れ果て、耕作地や森林として手入れが行き届かなくなった土地は深層崩壊の危機が進んでいくことがわかる。


意外なことに日本では、森林の面積は統計を見せていただいた1966年以降減っておらず、2500万ha=国土の67%前後を保っている。熱帯雨林地域で森林減少が問題にされるのとは対照的だ。一方で「森林の体積」は66年から増え続けている。天然林と人工林に分けて見ると、人工林が面積は微増なのに対して、体積は大きく増えている。これは天然林が若干伐採されているものの植樹はされており、その植樹した木が順調に成長していることを示している。逆にその生育した人工林を利用せずに肥満状態で放置しているために問題が大きくなってきているのだ。要は、木が伸び放題なのである。スギ花粉症の蔓延もその顕れのひとつだという。
間伐されずに放置された森林は地面への日差しが届かないため下草が育たず、土が流れやすく保水性が悪くなる。その結果樹木も不健康になり、自己防衛本能から種属維持のためにより多くの花を咲かせ、結果として花粉をまき散らすことになる。

森林を健康に保つためには間伐(適度に間引くように木を切り出す作業)が欠かせないのである。

 

国産木材をいかに使うべきか

国産木材の供給は戦後の復興で延び、1965年にピークを打ってから減少に転じた。戦後の復興に多くの木材が使われ、学校をはじめとした公共の建物が多くは木造でつくられたが、その後の高度成長期にはそれらが次々に鉄筋コンクリートに建て替えられていった。
その後も木材全体としての需要は延びていったのだが構造材としての利用は減っていき、市場は安い輸入材に取って代わられる。

木材価格の推移を見ると、1980年には価格的に輸入材に太刀打ちできなかった国産材が次第に値崩れし、2009年には輸入材よりも安くなっている。にも拘らず現在でも国産材の需要が伸びていないのは、戦前~終戦直後に比べて木材の使用方法が変わったためだという。無垢の製材ではなく集成材や合板の需要が増えるのに対応して、合板の材料を丸太からカツラ剥きのようにして薄く幅の広い材を切り出すため、太い幹をもつ輸入材のほうが加工性が良いのだ。建築設計に係わる筆者も「森林資源保全のために木を使うにもその使い方を考えねば国土のためにはならない」と思い知らされた次第である。

 

森林の効用と私たちの暮らし

森林は雨を土の中に蓄えてから少しずつ流す。そのため土砂の流出を防ぎ、災害防止に役立つ。木の実は多くの生物に栄養をもたらし、それらが動物や鳥の餌になり、その死骸は土に戻るという循環により多様な生物の共生の場となる。また、二酸化炭素を吸収蓄積して地球の温暖化も防ぐだけでなく、植物の分泌する揮発成分は殺菌作用があり、免疫力を高めて人に安らぎを与える効果も実証されている。間伐され、程良く手入れされた森林は日差しが行き届いてよりその効果が増すのである。
森林で蓄えられた水は栄養分を多く含み、そこから流れ出る河川水は近海に豊富な栄養をもたらす。日本近海での魚の種類の豊富さも、陸地における森林の豊かさに支えられているのである。河川の下流域にある都市は上流域の耕作地や森林によって育まれ守られていることがよく判る。

 

流域連携による ふるさと創生

宮林先生の活動はこうした現状の課題の把握からそれを打開する具体的な行動に及ぶ。
群馬県川場村では、40年前に東京都世田谷区に「区民の第二のふるさと」に選ばれた時から係わり、距離を超えた縁組を支えてこられた。当時の人口は世田谷区が95万人、川場村が3600人。それが縁組の数年後には交流人口が3万人になり、平成27年には世田谷区人口の倍の190万人を超えたという。

実際に行われているのは里山自然学校での茅葺塾、森林づくり塾、農業塾といった都会では経験できない「ふるさと経験」だ。川場田園プラザはその果実をまるごと楽しめる場所であり、その特徴はリピーターが多いことにある。親の世代から川場村に通い、ふるさと体験として培われた記憶が子の世代にも引き継がれ、世代に亘って交流が続いているのである。ビジネスとしての成功を支えているのは物産やサービスの魅力だけでなく、マーケットを継続的につくり出す仕組みなのだろう。
多摩川源流大学は東京農業大学の学生を多摩川源流の小菅村(人口約750人)に送り込み、源流域の自然や文化を現地に学び、農林業や地域の物産開発に実習として取り組むことで、流域の繋がりを理解する人材教育を行っている。
宮林先生はこれを「源流文化の教育力」と呼んでおり、自然との共生や文化の継承のあり方、里山の文化がどのように育まれたかを経験として学んでいくのだという。
これらの経験を踏まえて集大成のように構想を練られているのが荒川ビジョン推進協議会における活動である。持続性の高いインフラをつくるには上流域の市町村の協同だけではなく、上流から中流下流を含めた流域全体の交流が必要であり、「水の駅」はそのプラットフォームとして構想される。

最後に提言として、流域を守ることは都市を守ることであり、都市に住む人は先ず上流域を訪れ、上流域と下流域が共生していることを学び、花粉症、鳥獣害、山崩れ、遊休耕地の増加などは上流域からの異変のサインであることを知り、循環型社会を形成するために上流域に学び、遊び、暮らすことが「ふるさと創生」につながるのだ、と締めくくっていただいた。
都市に住む人間として、自らの生活の場がどのようなインフラ構造の上にあるのか、あらためて考えさせられる貴重な時間だった。

東京の水辺を巡る旅 第3弾/小名木川と深川界隈

去る2018年 7月12日、国際観光施設協会で第3回の水上セミナーを開催した。2016年夏の第1回は羽田沖から浅草に至る隅田川の幹線ルートを中心に、2017年秋の第2回は日本橋を起点に内陸河川を巡るクルーズだった。

第2回では隅田川より都心側の日本橋川神田川などの内陸河川を巡ったが、

この第3回は隅田川の東側に広がる、江東区を中心としたいわゆる「ゼロメートル地帯」を含むエリアを背の低い船で巡るツアーだった。

江東区を東西に横切る小名木川の西側河口近くに架かる高橋(たかばし)近くの防災船着場から出発し、時計回りにこの一帯の水路を巡り、隅田川に出てからもう一度北側から廻って戻るルートであった。

小名木川徳川家康小名木四郎兵衛に命じてつくった運河であることから名づけられた。南江東には全国からの木材が集積した木場があったが、この運河は現在は千葉県の行徳辺りにあった塩田からの塩を運搬する目的でつくられた。その後、江戸期を通してあらゆる農産物を運ぶ重要な動線であり続け、明治時代には水運を利用した工業の発達にも寄与したらしい。その後、地盤沈下が進み、水路は堰き止められて干上がっていた時期が長かったが、荒川ロックゲートが出来た頃から復活し、現在では低い水辺は多くの閘門によって高潮から守られている。最近はこの一帯が新しい賑わいのスポットとして脚光を浴びている。
このルートは水面と地上面が非常に近く、橋桁が低いため、船のサイズが限定され、かつ航行できる季節や時間帯まで限定されてしまう。今回は潮位の関係で朝9時集合、9時半出発、午前中にツアー完了、という健康的なスケジュールとなった。

 

 


朝の集合時間に参加者が集まり始めたとき、たまたま通りかかった犬を連れた老齢の白人女性が「これから船に乗るのか?」と尋ねてきた。「そうです」と答えると「この近くに永らく住んでいるが常々舟でこの辺りを廻りたいと思っていた。どうしたら乗れるのか?」と真面目な表情だ。「今回は満員なので無理だが、」とまちふねみらい塾の阿部理事が後日の連絡先を教えて差し上げた。この夫人の御宅をこの後、意外なかたちで知ることになる。


高橋防災船着場から出発


猛暑の夏のクルーズで屋根の無い小舟とあって熱中症の心配をしたが、幸い天気は曇りで、船が動き出すと心地よい風を感じることが出来た。想像していた通り、この辺りの水路は地面に近く、生活空間が間近に見える。人工の水路ゆえの直線的な護岸が続くが、緑越しに水の風景を楽しむ暮らしが想像される。


小名木川を東へ


小名木川を東に進んだのち途中で南に折れて門前仲町方面へ向かったのだが、そのまま東へ進むと閘門と小名木川名物のクローバー橋がある。今回は浚渫工事が盛んに行われていたため、残念ながらそこまでは行けなかった。次の機会にはそこを通って荒川ロックゲートまで行ってみたいものだ。
低い橋をくぐっていくうちに、多くの橋の橋脚が護岸から更に引っ込んだいるのに気付いた。なぜ橋のスパンが長くなるような構造にするのか?不思議に思っていたが、よく見ると護岸がほとんどコンクリートの打放しなのに橋脚の部分は石積みになっている。


護岸から引っ込んだ橋脚

 

大栄橋附近 石積みの橋脚

 

そこで判ったのは、橋脚をわざわざ引っ込めて造ったのではなく、元々はもっと幅広かった水路に橋が先に出来ていて、後から護岸が付け足されて整備されたのではなかろうか、ということである。日本では海岸沿いの漁村などでもよくあることだが、昔は船が直接持ち主の家の下のデッキに着けられたが、現在では海岸線沿いに道路と護岸が造られ、水辺と建物は道路で隔てられている。同じことがこの内陸運河でもあったのだろう。ヴェネツィアなどに見られる船着き場を持った住居が、日本ではもうほとんど見られないのは残念なことだ。
一方で、その道路沿いには桜が植えられるなどして、違った水辺の楽しみ方も生まれている。


門前仲町の水辺の桜並木


門前仲町辺りの満開の時の桜並木を想像しながら隅田川への河口に近づくと、屋形船の舟溜まりが見えてくる。ここを抜けると隅田川だ。


巽橋 屋形船の舟溜まり

 

この水上セミナーでも隅田川沿いの風景は幾度か経験したが、最近話題のシェアホテルLYUROを含め、江東エリアには水辺ならではの建物が目立つ。「あんな処に居られて羨ましい」と思わせる住居やオフィスが幾つも見られた。
シェアホテルLYURO
隅田川沿いの魅力的な水辺の住居
隅田川からもう一度江東の内陸水路、小名木川と平行に北側を走る堅川に入る。ここは上空を高速道路が塞ぐ、日本橋川と同じ現実を見せられる。ただ、実際に水運が活きていた時代でもこうした裏通り、表通りの差は水路によってあったに違いない。ここから再び小名木川に戻り、水上セミナーは終了した。


隅田川から見る堅川水門

 

上空を高速に塞がれた堅川

 

この後、まちふねみらい塾の高松・阿部両理事と有志で昼食を共にすることとなった。人気のカフェも次々に生まれているエリアである。この清澄、森下一帯でのまちづくりに関わる人達とも親交の多い両理事に案内されて流行りのカフェで昼食、その後「オシャレなレンタルバイク店がある」と案内されたのが堤防の脇に建つALOHALOCO(写真の建物)であった。この建物を見るなり、「これは船から見たあの格好いい家だ」と気付いた。

 

オシャレなカフェで昼食

 

レンタルバイクALOHALOCO

 

ここの店主とひとしきり最近の観光客の動向などの話をした後、建物のことを尋ねると、「ここは借りている」と言う。堤防で川が見えない1階を貸店舗にして、オーナーはその上に住んでいる訳である。そして「オーナーは長く日本に住んでいるアメリカの方なんですよ」と続けた。「もしかして」と思い、朝会った犬を連れた夫人のことを言うと「その人です」とのこと。余りの偶然に両理事とも驚き、かつ私は、水辺の景色の価値を判る人がアメリカ人であったことに何とも言えない遅れを取った気分を味わったのである。

ハイアットセントリック銀座 東京 セミナー見学会報告

2018年4月23日、銀座並木通りにオープンしたハイアットの新しい都市型ブランドのホテル、ハイアットセントリック銀座にてセミナーと見学会を行なった。並木通りのブランドショップ街の中に位置するかつての朝日新聞本社跡で、明治時代には夏目漱石もこの場所で筆を振るっていたらしい。築地に朝日新聞が移転した後、旧ビルは賃貸ビルとして1,2階を店舗、その上をオフィスとしていた。銀座はこの15年余り高密度な建て替えが進んでいる。都内でも戦後の復興が最も早かったエリアで、旧法規では地下が容積に含まれなかったため都市計画上600~700%の容積率のエリアで実質800%程度の建物が建っている。高密度ではあるものの、旧耐震基準による建物が多く、ひとたび震災が起これば壊滅的な被害を受けるのは明らかなため、中央区は地区計画を整備して容積割増を得やすくするなどのインセンティブを与えて街のリニューアルを推進したのである。この旧ビルの建て替え計画が起こったのは4~5年前だったと記憶している。筆者は設計コンペに参加して敗れたが、その時の計画条件は旧ビルと同じ店舗の上にオフィスが載る計画であった。その後観光客需要の増加を受けて元の計画が白紙に戻され、ホテルに方針転換されたようである。
新しい建物でも1,2階はブランドショップであり、メゾネット形式の店舗が縦割り状に並んでいる。その一角にこじんまりとしたホテルの地上ロビーがあり、エレベータで3階にあるレストランとバー、その上の4階ロビーに上がることが出来る。3階ではエレベータを降りた手前から順にバー、ラウンジ、レストランと奥に繋がっていく。両端のバーとレストランは2層吹抜けになっており、バーの周りを囲むようにして4階ロビーに上がっていく階段は宿泊客とバーの客が互いに見て見られる関係を上手く演出してするよう絶妙に配置されており、薄く、美しい。
セミナーは3階中央のラウンジスペースを使って行われた。随分と種類の豊富なデザートにコーヒーがふるまわれ、ここの食事のレベルの高さを垣間見せられた後、設計者である鹿島デザインの磯氏、ハイアットの内山総支配人から設計、ブランドのコンセプトを詳しく説明いただいた。前述の階段は設計~施工を一貫して請け負った鹿島が通常の構造検討のみならずモックアップもつくって詳細を検討したそうである。見せ場と決めたところには徹底的に労力をかける姿勢に感銘を受けた。
ターゲットを宿泊客に特化し、東京への旅行客に都心の別邸を提供するイメージを大切にしている。基準階は端部に大きめの部屋を配置し、他はすべてスタンダードで充分な広さを持たせ、必要な機能がすべてコンパクトに、品良く効率的にまとめられている。「ここを起点に、銀座・東京を満喫する」という目的がはっきりとデザインコンセプトに反映されている。
4階のロビーは四方に開いたフレンドリーな受付カウンターとコンシェルジュがあり、周囲の壁は時折色彩や雰囲気を変えられるような工夫がされ、旅行者の興味を誘うライブラリーを介して居心地の良いラウンジにつながっている。
客室以外の施設は飲食とジムにほぼ限定している。3階に集約されている飲食部門のレイアウトも機能的で、吹抜けで天井の高い部分の開放的な席や、天井の低い部分のコージーな席が上手く配分されている。何処にいても周囲から邪魔されない、落ち着きを感じられるレイアウトの工夫がされながら、前述のように、必要に応じて60人程度収容のイベントが出来るスペースを内包している。並木通りに面してはテラス席があり、街路樹の緑の上から行き交う人々を見下ろして寛げる空間を提供している。テラスの直情は客室フロアが覆っているため若干の雨の日でも気持ち良く使えそうである。
インテリアにはこの場所が新聞社、メディア企業のルーツであることをイメージさせる、活字、活版印刷機、紙等々のモチーフを使った色鮮やかなアート、壁紙やカーペットが用いられている。奇数階と偶数階で基調色を赤、青とカラースキームを変えるなど、客に自分の滞在するスペースを特徴づけて見せる工夫も秀逸である。スタンダードの客室は充分な広さをもちながら、水廻りや冷蔵庫をふくめたバーのレイアウトにはスライディングウォールを上手く配置することで、ある時は部屋全体がワンルームとなり、必要に応じてプライバシーを確保することも出来るよう、細かい工夫がされている。
最上階の中央には1室のみスイートルームが用意されている。入ると直ぐに鉄板焼きも出来るキッチン付きのダイニングルームがあり、シェフを呼んだケイタリング、パーティーも出来る。その奥にはリビングがあり、キャンバス地のキャノピーのあるテラスと繋がっている。その奥には水廻りの充実した寝室、バスルームがある。高額ながら非常に稼働率が非常に高いそうで、この日に見学できたのは幸運であった。
銀座の真ん中にあって、決して大きくは無い敷地を充分に活かしきった、機能的でハイセンスな、寛げる空間を満載したホテルである。宿泊するなら是非数日連泊で、食事のためだけでもまた来てみたいと感じた次第である。

ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町 見学会

2017年4月17日、ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町にてランチョンセミナーを開催した。昨年7月にオープンしてから9ヶ月が経ったので、既に見に行ったり、充分に情報を得た方も多いだろうと思っていたが案に反して、参加募集当日に定員が埋まってしまう結果になった。

オープン前から色々なルートで見学会開催を交渉してきたが上手く進まず、今回漸く実現出来たのは、ホテル側と見学する側の互恵関係が成立したためだろう。

会場となった最上階36階のOasis Gardenはフロアの東面を占め、南から北まで180度の景色を楽しめる。通常の客は入口に近い南側の客席を埋めており、奥まった北側にはレクチャーや集会に使えるエリアがある。

そこで最初にランチをいただいた。参加者の方々には4人掛けテーブルに詰めて着席いただいたが、前菜とメイン、デザートにコーヒーまで話も弾んだことと思う。

 

「赤坂」から「紀尾井町」へ

かつてイタリア・カラーラの石材業者から「世界で最もビアンコ・カラーラを上手く使った建物は赤坂プリンスホテルだ」と言われたことがある。白大理石で徹底したロビーはイタリアでも見られない印象的なものだった。

それが再開発されてオフィス、住宅等の他の要素をもつコンプレックスとなった。

近年こうした高級ホテルを含む複合開発が多いが、ほぼ共通してホテルを最上階に配置し、ロビーの規模を抑えて敢えて高級感と敷居を高さを演出することが行われる。

新しい施設の中心はオフィスであり、そのロビーは充分に大きく、旧赤坂プリンスホテルの記憶を呼ぶビアンコ・カラーラが用いられている。

同様に、レストランと対峙して配置されたレセプションは白大理石を基調にしている。最上階から周囲を眺めると、東京のほぼ中心にありながら周囲には同程度の高層ビルが無いため、非常に見晴らしが良い。皇居や東宮御所の緑も間近に見下ろせる、都内でも有数の眺望を持つ建物であることは間違いない。

 

ランチ後のセミナーでは、ホテルのコンセプトとブランド戦略について説明され、先ずなぜ赤坂の名を外し、「紀尾井町」としたかが語られた。

紀尾井町の名は、御三家のうち紀伊徳川家と尾張徳川家譜代大名石高筆頭の井伊家の江戸屋敷があったため、その頭文字を取って並べたことに由来する。

紀尾井町千代田区に属するが、赤坂は港区である。旧赤坂プリンスは千代田区にありながら赤坂を名乗っていたことになる。新たに生まれ変わるに際してはプリンスホテルのブランドの中でも最上級の「ザ・プリンスギャラリー」を冠すると共に、都内でも最高の立地をアピールするこの名を選んだとのこと。

同時にスターウッドホテルズのラグジュアリーコレクションにも加えられている。

 

眺望をコンセプトとして徹底したインテリア

施設計画の説明を聞いた後、ロビー、レストラン、バー、スタンダードとスイートの客室を見学させていただいた。インテリアデザインは最高の眺望を活かし「Levitation(空中への浮遊感、浮揚感)」をコンセプトとしてロックウェル・グループ・ヨーロッパによって行われた。

総帥のデビッド・ロックウェル氏は10年余り前にニューヨークで一世を風靡し「最もフィーの高い建築家」と言われていた。その日本での初仕事ということだが、実際に見てみると「建築家らしいインテリア」と強く感じた。

材料の質感や手触りに拘るのではなく、配置や機能を重視し、最初に決めたコンセプトを徹底して追及する姿勢が見られた。

ロビーや共用部では白大理石に加えてステンレスを多く用いてアートワークとのコンビネーションを重視したシンプルなデザインが為されていた。

客室デザインのコンセプトは「Framed Kaleidoscopic View(縁どられた万華鏡のような眺望)」として、大きな窓を額縁に見立てて眺望を絵画のように扱い部屋の主要素としている。

そこには寝そべれるベンチ状のソファが取り込まれ、重いカーテンは無く、薄いデイカーテンが最小限の存在感を以って舞台の幕のようにあるのみである。遮光は額縁の奥に隠されたロールブラインドによる。

さらに窓面では、室内側のサッシ枠よりも外側の押縁をずらして拡げ室内側からフレームが見えないような工夫がされている。

バスルームは寝室部分とは全面ガラスで仕切られ、バスに浸かりながらも眺望を楽しめるように配置も工夫されている。ガラススクリーンはスイッチ一つで白く不透明になる。

それらの開閉、操作は全てiPadを使って行われる。このアプリはなかなか使い心地が良かった。

スイートルームではベッド周囲の床を高くし、ベッド面は廻りのソファの背と同じくらいの高さにしてある。ベッドで過ごす一日の最後の時間まで眺望を楽しむための配慮だろう。

今回は見学ルートに入いっていなかったが、曳家保存された旧李王家邸も土地の歴史を継承する上で重要な施設であり、是非またゆっくりとお茶を飲みに訪れたいと思っている。

豊洲新市場 水産仲卸売場棟 見学報告

2016年10月17日、豊洲新市場の見学会を開催した。

本来であれば翌11月に予定されていたオープンを控え、この機会を逃すと開業後に限定された部分しか見られないだろうと考え、20人という人数制限付きながら強行した見学会であった。

見学したのは「6街区」と呼ばれる水産仲卸売場棟で、街区を担当する清水建設様のご厚意により東京都の許可をいただいた上で行われた。

それに先立つ7月5日、一般社団法人まちふねみらい塾との共催で「観光インフラとしての東京の水辺を考える」と題した水上セミナーを行ない、新築ホテルの見学に拘らずに東京の観光資源を探る活動を始めたところであり、その湾岸シリーズ第2弾として企画した。

ところが、東京都の許可を申請した直後から「汚染土壌撤去後の埋め戻しがされていない」事実が問題化し、開業が延期されるに至った。見学会自体も中止か無期延期を覚悟していたところ、見学会はそのまま許可されたのである。

ただし、当然のことながら、当時政治問題にまでなっていた地下の部分には立ち入っていない。

 

まず最初に工事現場事務所にて清水建設御担当者から計画についての概要説明を受け、その後実地に見学をさせていただいた。市場を実際に目にしての第一印象は「とにかく大きい」ということに尽きる。

卸売場棟と仲卸売場棟の間に立つと見渡す限りが市場の施設という感じである。

今回見学したのは市場全体の1/4にも満たないと思われるが、それでも駆け足で廻るのに2時間弱を要した。これが開業後であれば実際に運営している様を見ることになるのだからより壮観であろうと思われる。

仲卸売というのは卸売の次の段階で、テレビなどでもよく見るマグロの競りは卸売で行われる。仲卸売では卸売で仲卸業者が買ったものを小売りに販売するための施設であり、そこには数多くの仲卸売業者がそれぞれの店舗をもち、屋内ながら将に「軒を連ねる」ようになる。

見学の時点では幾つかの業者のブースが内装工事を終えているものの、ほとんどがまだ標準仕様のままの空き家状態であった。この標準仕様のブースもテレビ報道などでは「間口が狭くマグロが捌けない」と言われていたが、内装を終えた業者のブースを見ると幾つかのブースをまとめて使っているところが多かったようである。

早い段階で内装にかかれるのはそういう資力のある業者なのかも知れない。

1階部分にはこうしたスペースが拡がり、外側から間近に車が横付けできるようになっているのであるが、卸売場棟と仲卸売場棟を結んで水産物を運搬する通路、および仲卸売場棟内や実際に仲卸を経て外に搬出されるまでの通路は通常の車は入れず、クリーン動力の特別な車両のみが通行できるようになっている。

2階にはこうした活動を上から見下ろせるような見学者用の通路が完備されており、卸売業者や運営者の事務所スペース、飲食店などの店舗も入居している。築地が創業第一号店であった牛丼チェーンもこの2階に入居予定だそうである。

さらにその上の3階は広大な駐車スペースとなっており、地上とは外部のスロープで繋がり、1階の仲卸売場とは巨大な昇降機で結ばれている。

この昇降機は床がそのまま湾曲して立ち上がり巾木になっているなど、汚れが溜まらないような工夫を施した仕上であった。

3階の駐車場は風雨を防ぐ屋内空間になっているが空調ダクトの類は全くない。屋根に起伏を付けてハイサイドライトのように自然換気窓を大きく設けており、屋根に凹凸のある特徴的な外観はこの機能が表現されたものであることが判る。

さらにこの施設の特徴的なのは駐車場を覆う屋上に施された広大な緑化であり、前に触れた屋内見学通路とは別に、施設内を見学しない人たちでも市場を取り囲む公園から直通の階段、エレベーターで屋上と同じレベルまで上がり、専用のブリッジで屋上公園に入ることが出来ることである。この駐車場と屋上公園のために建築・躯体工事費のかなりの部分をかけていることは想像に難くない。

市場の施設全体で豊洲埠頭のかなりの部分を占めるのであるが、埠頭の外周部は都立の公園として解放されている。市場の北東辺りにはパラリンピック選手のために整備された木造の屋内ランニングトラック施設が既に完成しているが、これを含んで取り巻く公園はジョギングコースとしても最適な、長大な臨海公園になっている。

市場の屋上からここに向かって延びるブリッジが対岸の晴海埠頭の選手村予定地を望むように突き出し、外周を取り巻く公園に足を降ろしているのである。

こうした施設の開放性は東京都の施設ならではの試みであると評価したい。公園の運営管理と市場施設の運営管理が両方とも東京都だが、都の中でも異なる部局が行うはずであり、それが協力することが前提であることを考えるとかなり先進的な試みであると考える。

一方で、屋上を緑化するということは、市場内部の衛生環境にとってはかなり厳しい条件であるはずである。緑があれがそこには鳥や昆虫、さらにバクテリア、雑菌等も発生し、否が応でも一つの生態系をつくってしまう。

それをコントロールするのは容易ではないはずだが、間の3階にある駐車場がある程度はバッファの役割を果たしているのかも知れない。

豊洲市場を見学してからだいぶ時間が経ったが、今思い直してもかなり徹底して安全、衛生管理がなされていたと思う。

現在は開業の時期が決定できず混沌とした状況だが、安全面の問題は技術的に解決できるはずなので、必要な改善は直ぐに行い、政治問題化せずに一刻も早く開業することを願っている。

最近、石原元都知事が「現在の都政は安全と安心を混同している」という主旨の発言をしていたが、将に的確な表現だと思う。

豊洲開業の次には環状二号線の整備が続き、さらに続いて築地市場跡地の再開発、と大きな課題が残っている。

築地の再開発の計画は今後の東京の姿に決定的な影響を与える。これを後延ばしにすることは東京の未来にとって大きな損失であると考える。