観光インフラとしての東京の水辺を考える

2017年年6月29日、日本橋川に近い茅場町のFinGATEにて法政大学の陣内秀信教授と公益財団法人リバーフロント研究所理事の土屋信行氏をお招きし、世界と東京の水辺をテーマに講演会を開催した。

「観光インフラとしての東京の水辺を考える」と称して東京湾を巡る水上セミナーを開催したのがほぼ1年前になるがその時と同じく、陣内先生を塾長とする まちふねみらい塾との共催である。

最初の1時間は陣内秀信教授による基調講演「東京のウォーターフロント開発の可能性を世界に学ぶ」。私自身の知識と感想を加えてその概要を以下にお伝えする。

世界の都市では水辺を活かした開発が近年常識となっている、という言葉に始まり、江戸や大阪と同じ水門運河の街の例として最初に挙げたのはミラノだった。

世界の水辺の話が内陸の街ミラノから始まったのは正直意外だった。水門または閘門、Lock Gateは水面の高さの差を解消する技術だが、ミラノにはそれを活用した初期の例であるNaviglioという運河が残っている。

北イタリアにはコモ湖、マジョーレ湖という大きな湖があるが、そこから南東に流れて合流する二筋の河川に挟まれた位置にミラノはある。その二筋はやがてポー川となってヴェネツィアの南でアドリア海に流れ込むのだが、ミラノはその二筋の川を人工の運河で結んだ中央に発展した街である。

今ミラノではナヴィリオ運河沿いのエリアが最も新しいオシャレなスポットとして若者の集まる場所となっている。

運河の起源には諸説あるらしいが、この整備には晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチもかなり係わっていたはずである。この技術はルネッサンス後、北方に伝わりアムステルダムの街が形作られていった。

もともと物流の手段として運河がつくられ、高低差を克服するために水門の技術が発展し、運河を動脈とした街が発展していった。陣内教授の話で特に興味深かったのは、そうした物流が貨物の大型化によってコンテナ化され、コンテナヤードが沖合につくられていき、小さな葉脈のような水路が死んでいった、という指摘である。

確かに世界中の街で同様の過程を経てヒューマンスケールの水辺が消えていった時期があったのである。

しかし、ヴェネツィアはこれを都市計画的に解決したという。大きな客船、貨物船の着く埠頭は鉄道駅付近に集中させ、伝統的な運河の構造はそのまま残している。

アムステルダム幾何学的な都市計画によって街がつくられているが、工業ゾーンが発展するにつれてそれとどう折り合っていくかが都市計画の課題となった。

今では産業と住宅開発が一体になって沖に都市の拡張が上手く進み、フェリーも日常の交通手段として活躍する活気に溢れた街が形成されている。

更に陣内教授の話と美しい写真によるプレゼンテーションはシドニーハンブルク、ロンドン、バーミンガムビルバオ、ニューヨーク、ボストンと続き、最後にソウルの清渓川、上海バンドに至った。共通しているのは、もともと水運と共にあった倉庫の大空間が新しい施設や住宅として再生されたり、まとまった面積を持った地域は再開発されたりして、低めに安定した気温や風通しの良さを活かして開放的な空間と職住が一体となった魅力ある街がつくられていることである。

振り返って東京では、まだまだそうした街づくりは途についたばかりである。幸いなことに大川端、深川、芝浦ではコンテナヤードが沖に出たあとでも運河が残っている。万世橋隅田川のかわてらす等、水辺を活かした試みも出始めている。

日本橋川が高速道路で塞がれている、というのは良く指摘されるところだが、この付近には野村證券や日証館など明治から大正にかけての価値の高い建築が残っている。

日証館は防波堤と建築が一体となってその間に不思議な外部空間をもった珍しい建物である。ここに舟が着けられるよう、ここから東京の水辺を取り戻すべく頑張ろう、と会場に相応しい言葉で締めくくられた。

 

2時間目は土屋信行氏のテーマ講演「近現代の東京内部河川を振り返り、その価値を掘り起こす」である。最初に語られたのは東銀座、三原橋にあった映画館シネパトスが2013年に取り壊されたという、こちらも意外なところから始まった。

土屋氏は長年東京都や江戸川区の建設土木行政に関わってこられた経験と深く広い知識に基づいて江戸期から現在に至る「水の街 江戸~東京」の変遷を三原橋地下商店街を起点と終点において判り易く語っていただいた。

東京は明治期の近代化ののち、関東大震災東京大空襲と2度の大惨事を経て変わっていったこと、オリンピック前の経済成長期に首都高速の建設が進み、かつての運河、水路が変貌していったことは誰でも知っているだろうが、土屋氏の話で初めて知ったのは、東京の水路が失われていったのは単に近代化の過程ではない、ということだ。

関東大震災から昭和初期にかけてまで、実際には東京の水路は拡充し続けていた、という事実は意外であった。と同時にあらためて痛恨の思いで聞いたのは、震災復興の際に後藤新平らの復興計画が中途半端なところで終わってしまっていたことと、戦後GHQに圧力を受けた安井知事が大空襲跡の瓦礫の処理場として運河をどんどん埋め立ててしまったことである。

東京駅の八重洲側には外堀通りが走り、その地下には首都高速が走るが、ここは文字通り元は江戸城の外堀で、ここから先は運河が続いていたとすると丸の内側から見て駅の向こう側は海、という風景はアムステルダム駅とよく似ている。

よく言われるように東京駅とアムステルダム駅が似ているとは全く思わないが、もしかすると地形環境はそっくりだったのかも知れない、と思い至って納得してしまった。

かつての堀、水路を走る高速道路はいまだに「道路」ではなく排水設備の無い「河川」だそうだ。

最後に触れられたのは陣内教授と同じく、セミナー会場と懇親会場を提供していただいた平和不動産さまが所有管理される日本橋川に面して建つ日証館についてである。

横河民輔によって設計されたこの建物は設定した地下基礎から高潮ラインまでを土木工事で器のように造り、そこに建築が載っている。この先人の知恵を継承しながら土木と建築の狭間の空間を水辺を活かしていきたいものである。

両氏のセミナーの後、場所を移して懇親会が行われたが、その中で「日本橋の上の高速を取り除くために地下化を」というのは思い込みに過ぎず、既に高速は充分なネットワークが出来ており、あの部分は無くなっても交通処理には全く問題ないのだ、ということが話題になっていた。

まったく、もう一度東京の都市計画の歴史と現状、問題点を勉強し直そう、とあらためて思わされた一日だった。まずは土屋氏の著書「首都水没」から始めよう。