東京の水辺を巡る旅 第2弾/東京の内陸河川を巡って

2016年夏の第1回水上セミナーに続き、去る2017年11月7日、第2回水上セミナーを開催した。

第1回は天王洲から羽田沖に下りそこから築地を通って隅田川を遡上し浅草に至るルートで、100人乗りの船で東京へ来るインバウンド客の新たな動脈となる水上交通の可能性を体験したが、第2回は50人乗りの小さな船で東京の内陸河川を巡るクルーズだった。

橋桁と水位の関係で船の大きさが限定されるため、季節的にも寒過ぎず潮位も安定した今年最後の機会を狙って企画したのだが、天候に恵まれたのは幸いだった。第1回と同じくまちふねみらい塾との共催で高松、阿部両理事に船上で詳しい解説を戴いた。

野村證券本社下の日本橋の橋詰広場の船着き場に集合し、先ずは日本橋川を遡上するところから始まった。

常に話題になる日本橋と高速道路の関係だがあらためて水上から見ると、橋の欄干と石積み構造の全体像を臨むのは地上を歩いていては無理であることに気付かされる。

高速道路が上空を塞ぎその太い橋脚が橋の景観を阻害する現状を変えれば間違いなく都市景観を改善するが、日本橋を東京のランドマークとして再生するには単に高速道路を撤去するだけでは不充分で、橋を眺められる場所をつくることが必要である。

両岸・両側の橋詰広場と、そこから繋がる遊歩道のようなものを整備することが必要と感じる。

 

ここから神田川との分岐点まで遡る水路には江戸時代の外濠の面影が見え隠れする。残念ながら日本橋と同様に高速道路に上空を覆われた橋が多いが、橋のつくりはそれぞれが個性的である。

一ツ橋は中央部分が鉄橋、両岸側が石積みというハイブリッドである。こうしたことは地上を歩いているとつい見逃しがちである。

河岸の石積みは所々でまったく積み方が変わる箇所がある。岸壁づくりを担わされた諸大名が自分のやり方で造ったのだろうか。諸藩の江戸藩邸の位置とその本国の城壁の造りを比べてみると面白いかも知れない。

 

日本橋川の上流を神田川に右折すると高速道路の重圧から解放され、景色が変わり明るくなる。

後楽橋の手前で河上の船に処理したごみを排出するゴミ処理施設を過ぎてから両岸が高くなっていき、日本橋川沿いの濠端のような景観から谷間のような景観に変化していく。

さして急流でもない川の両側が切り立った岸壁になるのは何故か?

まちふねみらい塾から配布された中身の濃い資料を見て合点が行った。

現在の神田川は、江戸時代に日本橋川(当時は平川と呼ばれた)が度々江戸城付近の市街地に氾濫をもたらしたため、その水を隅田川へ流すべく、神田山と呼ばれた現在の東京大学(旧加賀藩邸)辺りから南に延びる台地(=駿河台)を切り通してつくった人工水路なのである。

 

右岸の上を中央線総武線が走り、左岸には段丘状の緑地が断続的に続く。

そこには中高木の混在する植栽帯が延び、高い護岸の圧迫感を緩和してくれる。平面的には決して広くはない緑地が、対岸から見ると豊かな緑塊となって見える。

御茶ノ水付近は水面からの高さが10数mはあるが、緑が護岸と一体となった自然な景観をなす。造園技術が水辺からの景観造りに寄与できる可能性を示している。

 

駿河台を抜けてさらに東へ進むと両岸は低くなり万世橋に至る。護岸の高さは日本橋川沿いと同程度の4mほどになる。

この辺りは江戸時代にはうなぎが良く採れ、うなぎ屋が軒を連ねたとか。

浅草橋までそんな往時を彷彿とさせる屋形船、釣り船が連なる風景がつづく。

 

隅田川に入って川幅が拡がると河岸の様子も変わる。堤防がやや高くなると共に水辺に降りられるような段状のつくりが目立つようになる。

橋はそれぞれが個性的な景観と構造を持つ。清洲橋は建造当時、鉄構造の橋としては技術の粋を集めたものだったそうだ。なるほど近くで見ると吊材が薄い鉄板を重ねたものであったり、現在では見られない構法でつくられているのがよく判る。

しかし水辺の風景を楽しむべく水辺と一体となった建物は未だ少なく思える。

時折り京都鴨川の川床料理のように河に面したレストラン、カフェが見られるものの、水辺に向かって大きく開いた建物は少なく、もちろん、逆に水辺が建物側に食い込んでいくような水景は全く無い。

こうした現状を改善するには土木と建築を隔てる法規制の改革も必要だが、建物用途のより良い配分と水上交通の発達が欠かせないと思う。

 

隅田川が突き当たる月島には公園として緑化された護岸の上に湾岸エリアでも比較的初期に出来た高層住宅が建っている。

これらの住宅の窓から水辺を臨むのは最高だろう。

しかし船から見ても「あそこに住んでみたい、行ってみたい」と思わせるには各住戸からもっと水に向かって張り出した開放的なバルコニーや、足元にはもっと岸辺の公園に開かれたカフェなどの賑わいの施設が欲しい。

それを経済的にも成立させるためにはそれらの施設が陸上交通の終着点として散在していてはダメで、水上交通や水辺のプロムナードの整備などでネットワークを生成する必要があるだろう。

月島から豊洲新市場、東雲、辰巳のオリンピックプール計画地やゲートブリッジなど、変わりゆく湾岸の景色を見ながらそんなことを考えさせられた。

 

帰途は東京ビッグサイトの西を築地に抜け隅田川を遡る。

築地は対岸の豊海と共にまちふねみらい塾では東京の新しい水上交通のゲートとして最重視しているエリアである。築地エリアを正しく活かすことは都行政の課題としてさらに大きくなっていく。

中央大橋の手前を左に曲がり亀島川に入る。曲がり角には東京湾水位の基準点がある。

豊洲から東雲、辰巳と続く運河にも所々水門が設けられ高潮対策がなされているが、この亀島川は入口に亀島川水門、日本橋と合流するところに日本橋水門があり、高潮から守られている。

夕刻遅くなると潮位が上がりこの川の橋はくぐれなくなるらしい。他の湾岸エリアより1m程護岸が低く設定されているとのことである。

この低さを活かしてボートの係留所を設けたり葦を植えるなど親水護岸として造園的な修景がなされており興味深い。

この日に見た最も「歩きたい」と感じる水辺の風景だった。

新髙橋、高橋、亀島橋と続く一連の橋も、名前に反して最も低く、薄い。上を歩く人と触れ合えそうなくらいである。こうしたヒューマンスケールの水辺が水門の技術に支えられていることは忘れてはならないだろう。

 

最後に日本橋川に戻り、日証館を見ながら日本橋の船着き場に帰り着いた。

東京の水辺の豊かな表情の変化を堪能し、考えさせられた3時間であった。

観光インフラとしての東京の水辺を考える

2017年年6月29日、日本橋川に近い茅場町のFinGATEにて法政大学の陣内秀信教授と公益財団法人リバーフロント研究所理事の土屋信行氏をお招きし、世界と東京の水辺をテーマに講演会を開催した。

「観光インフラとしての東京の水辺を考える」と称して東京湾を巡る水上セミナーを開催したのがほぼ1年前になるがその時と同じく、陣内先生を塾長とする まちふねみらい塾との共催である。

最初の1時間は陣内秀信教授による基調講演「東京のウォーターフロント開発の可能性を世界に学ぶ」。私自身の知識と感想を加えてその概要を以下にお伝えする。

世界の都市では水辺を活かした開発が近年常識となっている、という言葉に始まり、江戸や大阪と同じ水門運河の街の例として最初に挙げたのはミラノだった。

世界の水辺の話が内陸の街ミラノから始まったのは正直意外だった。水門または閘門、Lock Gateは水面の高さの差を解消する技術だが、ミラノにはそれを活用した初期の例であるNaviglioという運河が残っている。

北イタリアにはコモ湖、マジョーレ湖という大きな湖があるが、そこから南東に流れて合流する二筋の河川に挟まれた位置にミラノはある。その二筋はやがてポー川となってヴェネツィアの南でアドリア海に流れ込むのだが、ミラノはその二筋の川を人工の運河で結んだ中央に発展した街である。

今ミラノではナヴィリオ運河沿いのエリアが最も新しいオシャレなスポットとして若者の集まる場所となっている。

運河の起源には諸説あるらしいが、この整備には晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチもかなり係わっていたはずである。この技術はルネッサンス後、北方に伝わりアムステルダムの街が形作られていった。

もともと物流の手段として運河がつくられ、高低差を克服するために水門の技術が発展し、運河を動脈とした街が発展していった。陣内教授の話で特に興味深かったのは、そうした物流が貨物の大型化によってコンテナ化され、コンテナヤードが沖合につくられていき、小さな葉脈のような水路が死んでいった、という指摘である。

確かに世界中の街で同様の過程を経てヒューマンスケールの水辺が消えていった時期があったのである。

しかし、ヴェネツィアはこれを都市計画的に解決したという。大きな客船、貨物船の着く埠頭は鉄道駅付近に集中させ、伝統的な運河の構造はそのまま残している。

アムステルダム幾何学的な都市計画によって街がつくられているが、工業ゾーンが発展するにつれてそれとどう折り合っていくかが都市計画の課題となった。

今では産業と住宅開発が一体になって沖に都市の拡張が上手く進み、フェリーも日常の交通手段として活躍する活気に溢れた街が形成されている。

更に陣内教授の話と美しい写真によるプレゼンテーションはシドニーハンブルク、ロンドン、バーミンガムビルバオ、ニューヨーク、ボストンと続き、最後にソウルの清渓川、上海バンドに至った。共通しているのは、もともと水運と共にあった倉庫の大空間が新しい施設や住宅として再生されたり、まとまった面積を持った地域は再開発されたりして、低めに安定した気温や風通しの良さを活かして開放的な空間と職住が一体となった魅力ある街がつくられていることである。

振り返って東京では、まだまだそうした街づくりは途についたばかりである。幸いなことに大川端、深川、芝浦ではコンテナヤードが沖に出たあとでも運河が残っている。万世橋隅田川のかわてらす等、水辺を活かした試みも出始めている。

日本橋川が高速道路で塞がれている、というのは良く指摘されるところだが、この付近には野村證券や日証館など明治から大正にかけての価値の高い建築が残っている。

日証館は防波堤と建築が一体となってその間に不思議な外部空間をもった珍しい建物である。ここに舟が着けられるよう、ここから東京の水辺を取り戻すべく頑張ろう、と会場に相応しい言葉で締めくくられた。

 

2時間目は土屋信行氏のテーマ講演「近現代の東京内部河川を振り返り、その価値を掘り起こす」である。最初に語られたのは東銀座、三原橋にあった映画館シネパトスが2013年に取り壊されたという、こちらも意外なところから始まった。

土屋氏は長年東京都や江戸川区の建設土木行政に関わってこられた経験と深く広い知識に基づいて江戸期から現在に至る「水の街 江戸~東京」の変遷を三原橋地下商店街を起点と終点において判り易く語っていただいた。

東京は明治期の近代化ののち、関東大震災東京大空襲と2度の大惨事を経て変わっていったこと、オリンピック前の経済成長期に首都高速の建設が進み、かつての運河、水路が変貌していったことは誰でも知っているだろうが、土屋氏の話で初めて知ったのは、東京の水路が失われていったのは単に近代化の過程ではない、ということだ。

関東大震災から昭和初期にかけてまで、実際には東京の水路は拡充し続けていた、という事実は意外であった。と同時にあらためて痛恨の思いで聞いたのは、震災復興の際に後藤新平らの復興計画が中途半端なところで終わってしまっていたことと、戦後GHQに圧力を受けた安井知事が大空襲跡の瓦礫の処理場として運河をどんどん埋め立ててしまったことである。

東京駅の八重洲側には外堀通りが走り、その地下には首都高速が走るが、ここは文字通り元は江戸城の外堀で、ここから先は運河が続いていたとすると丸の内側から見て駅の向こう側は海、という風景はアムステルダム駅とよく似ている。

よく言われるように東京駅とアムステルダム駅が似ているとは全く思わないが、もしかすると地形環境はそっくりだったのかも知れない、と思い至って納得してしまった。

かつての堀、水路を走る高速道路はいまだに「道路」ではなく排水設備の無い「河川」だそうだ。

最後に触れられたのは陣内教授と同じく、セミナー会場と懇親会場を提供していただいた平和不動産さまが所有管理される日本橋川に面して建つ日証館についてである。

横河民輔によって設計されたこの建物は設定した地下基礎から高潮ラインまでを土木工事で器のように造り、そこに建築が載っている。この先人の知恵を継承しながら土木と建築の狭間の空間を水辺を活かしていきたいものである。

両氏のセミナーの後、場所を移して懇親会が行われたが、その中で「日本橋の上の高速を取り除くために地下化を」というのは思い込みに過ぎず、既に高速は充分なネットワークが出来ており、あの部分は無くなっても交通処理には全く問題ないのだ、ということが話題になっていた。

まったく、もう一度東京の都市計画の歴史と現状、問題点を勉強し直そう、とあらためて思わされた一日だった。まずは土屋氏の著書「首都水没」から始めよう。

東京の水辺を巡る旅 第1弾/「海から見た東京」と「海を見る東京」

2016年7月5日、国際観光施設協会建築部会は、一般社団法人まちふねみらい塾との共催で「観光インフラとしての東京の水辺を考える」と題した水上セミナーを行った。

パーティークルーズ船を借り切り、海の上から見た東京の魅力を探そうという企画である。

天王洲のピアから出発して南に向かい、羽田沖で折り返してレインボーブリッジをくぐり、築地沖を通って浅草吾妻橋まで至るルートを、東京の街並みを普段とは異なる角度で東京湾側から見ながら北上した。まちふねみらい塾からの参加者も含めて、90人乗りのジーフリート号で定員ほぼ満員であった。

 

天王洲から羽田沖に至る船上ではキャビン内のスクリーンを使い、まちふねみらい塾の代表理事、元東京都産業労働局観光部長の高松巌氏から東京ベイエリアの現状や今後の開発の方向性等についてレクチャーをされた。

羽田がハブ空港として成田以上に重要性を増す中で、空港と都心を結ぶルートとして水上交通を活かしてはどうかという話から始まる。

英国のウィリアム王子が来日した際、前都知事が船でエスコートしたのは記憶に新しく、来訪者が最初に見る東京の姿が湾岸エリアからというのは東京の都市像にある種のパラダイム変換をもたらす可能性はありそうである。

江戸時代には世界有数の水運の街だったと言われる東京の水辺を魅力的に再生するにはそのくらいインパクトのある仕掛けが要るだろう。

 

現状の天王洲から羽田沖に至る運河沿いの風景は倉庫ばかりで魅力に乏しいが、この時間を活用したレクチャーの中で興味深い話があった。

以前まちふねみらい塾からこの水上ルート改善策を行政に持ち上げた際に、水辺の環境保護を主張する「野鳥の会」が最大の難関で突破は無理だろうと言われたが、実際に野鳥の会に赴いたら「野鳥の生息域となっている潮の満ち引きよって現れる砂州部分を保護すれば問題ない」とのコメントを得たらしい。

どの行政にも必ずある縦割りによって計画の自由度が妨げられることはよくあるが、実際には存在しない縦割りの障害を意識の中で創り出してしまうこともあり、横通しに動いてみると意外と簡単に突破口が開けるという例だろう。

羽田から都心に移動する途上で野鳥の群れるさまを見られたらさぞ楽しいだろうと想像させられた。

 

羽田の滑走路の先端沖まで達した辺りからまちふねみらい塾専務理事で建築家の阿部彰氏が船の屋上に上がり実際の風景を見ながら詳細な解説を戴いた。

羽田沖で折り返してからはレインボウブリッジを目指して幅の広い水上ルートを通り、それまでの運河沿いのやや圧迫感のある風景とは一変した。

コンテナヤードなどの港らしい風景も距離を置いて見ると随分と印象が変わるものである。北上するにつれて大型船の泊まれる岸壁は減り、次第に都市的な風景に変わっていく。

江戸末期の砲台跡だったお台場の由来を聞きながら当時の石積みが残る岸壁を眺め、かつてハウステンボスを計画から立ち上げた池田武邦氏から「コンクリートの護岸ほど水辺の生態系をダメにするものは無い。あれは一種の殺戮行為だ」と言われたことを思い出した。

丁寧に積まれた独特の石積みは今見ても美しく、歴史を感じさせるだけでなく、周囲の浅瀬や緑地とも馴染み、鳥や小生物の格好の棲み処となっているようだ。

船が北上するにつれてこうした港や自然豊かな風景は減っていく。水路の幅も次第に狭まっていき、岸辺がより近くに見えてくる。

風景のスケール感が変わり岸に居る人々のアクティビティが見えるようになってくる。レインボウブリッジをくぐる辺りからそんなことを感じ始めたものだからこの巨大な橋がなおさら東京へのゲートのように思われた。

 

入り組んだ風景の中に日本橋川のような小さな河口がいくつも見え、「ここを遡っていくと何処に行くのだろう」と思わず誘われるような感じがするが、河川によっては途中に水門があったり、入れる船のサイズも限定されるなど知識が無いと身動きも出来ないという、難しい課題も教えていただく。

岸辺にはいわゆる「親水空間」と呼べる公園や水の風景を活かした建物が多く見られるが、こうした魅力的なものが「並んでいる」という印象は無い。散見される程度、というのが実情ではないだろうか。

京都の鴨川沿いでは、川に沿って建ち並ぶ町屋の多くが街路に面して間口の狭い入口を持ちながら深い奥行きの先に川に面して開かれて飲食店のテラス席になっており、水辺と表裏一体に街が構成されているのが見られる。

一方、東京の湾岸ではそうした水辺の活用は個々の施設、建物まかせになっており、多くの建物は水辺に背を向けて建っているように見える。

もっと水景を活かし「海を見る」建物、店舗が増えてくれば逆に水上交通側から見ても街が魅力的に見えるし、水辺が親水空間としてより整備されるだろう。

陸地と水上が対話するような関係が互いをより魅力的にするはずである。

しかし、それには水辺を活用することによって成功を収める起爆剤となるプロジェクトが要るのだろうとも感じる。

実際には晴海や佃島の大川端などの大きなプロジェクトではそうした試みはされているのだが、土木工事である岸壁の整備と建築ランドスケープとの融合は法的にも課題が残る。

個々の小さな建物の中では水に面して客席を多く設けた飲食店ビルなども見られるが、阿部氏によると、それが鴨川のように外に解放されたテラス席をつくろうとすると、近隣から反対されて挫折してしまい出来ないことが多いのだそうである。

夜うるさいから、ということらしい。画期的な成功モデルがあれば場所に対する価値観が変わり、こうした社会的な風潮も変わってくるだろうと期待したい。

 

今回の水上セミナーの大きなテーマは「東京の水辺に潜む魅力を探る」とともに「水上交通をもっと活かせないか」という課題を実体験することだったと思う。

水上交通の整備には技術的な課題の克服と共に法的な整備が必要であることと共にポテンシャルも非常に大きいことを学んだ。

羽田空港築地市場跡、大川端、浅草等のハブとなるポイントを整備していけば必ず魅力的な水上幹線交通が必ず出来るだろうと予感された。

一方で、「東京の水辺の魅力」を高めるという点では、水際の整備に関わる法的な整備、緩和と共に、個々の水辺を持つ計画が水と陸との間の「見て、見られる関係」をつくり出していくことが重要だと感じた次第である。

観光資源、都市インフラとしての東京の水上交通、水辺の空間の現状を知り、あるべきかたちを考えさせられる有意義な3時間であった。

水のまち 「水都」東京はよみがえるか

バブル期に東京は湾岸エリアに膨張しようとしていた。

ウォーターフロントという言葉が流行り、土地の価格が上昇を極めた東京では安い土地、新たなフロンティアを人々が湾岸エリアに求めていった。

バブルがはじけてから20年以上がたった今、当時最先端だった湾岸のプロジェクトのうちの幾つかは今や空き家になろうとしている。

かつて東京モーターショーが行われた晴海の国際展示場跡地に出来たトリトンスクエアには、キーテナントである住友商事が退居し、大きな空白が生じようとしている。